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教員コラム

「言葉と遊び」について

先日、ゼミの卒業生のあつまりがありました。この年のゼミのメンバーは、遠方に就職してなかなか会えない人はいるけれど、あつまりがよく、皆であつまる際には先生にも声をかけてくれるので、卒業後1年半ではやくも3回目の参加になりました。

このゼミは、大学の授業としてのゼミのときからそうでしたが、とにかく全員参加で話がいきもののように動き、展開していくということがありました。一つのテーマを深めるというより、話があちらこちらに自由に展開していくので、ゼミの教員としては苦労する面もありつつ、やはり楽しい体験でした。発言の多い人、少ない人というのはもちろんあるのですが、不思議と全員がしっかり参加しているという感覚がありました(一人ひとりが実際のところどう感じていたかは、もちろんわかりませんけれど)。

今ではゼミのメンバー全員が社会に出ており(大学院に進学した人もいますが、臨床心理士になるための大学院のため、置かれている環境の厳しさはほとんど社会に出るのと変わらないと思います)、それぞれ辛い思いもしているだろうと思うのですが、このメンバーがそろうと職場や人間関係の愚痴というものが、あまり出て来ません。たまに仕事のことや大変な状況のことが話題になっても、すべて笑いに変えてしまう。よくもこれだけ話が続くなというテンポで、たえず無理なく話が展開し、まさに会話で遊んでいるという感じです。

言葉のやりとりを遊ぶということは、心理療法やカウンセリングでも最も重要視されることの一つで、それができればどんな人生の困難も、それこそ笑い飛ばしてしまえるのではないかと思います。このゼミの人たちはそれが自然にできているわけで、どうなっているのだろうと感心し、不思議に思います。もちろん裏をかえせば、辛いことやしんどいことをこの場では言えない、ということかもしれないのですが、言葉というもののおもしろさと、ただの仲良しメンバーとも違うゼミという人間関係の不思議さを、つくづく感じた日でした。

今西 徹(2016年11月28日)