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教員コラム

となりのトトロを考える②

【①からの続きです】

ご存知のとおり、これは宮崎駿作品アニメ「となりのトトロ」の一場面である。

授業で私は学生といっしょに観た。そのあと、この場面について質問した。
「トトロと会ったことをウソだと思われたと、笑っている姉や父にメイが怒る場面がありましたが、怒っているメイちゃんにお父さんは何と言いましたか?」と尋ねてみた。驚いたことに数人が覚えていた。

「『運がよかった。森のぬし、に会ったんだから』というようなことをお父さんは言ったね。これはすばらしい答えだと思う。たいていの大人だったら、こうは言えないと思う」と私は言った。

「たいていの大人だったら、メイちゃんに何と言うと思いますか?」と尋ねると、「それは夢を見たんだろう」という答えが多かった。まさしく、姉サツキも「夢みてたの?」とメイに聞いている。
「では、小さなメイちゃんでなくて、みなさんのような学生が、トトロと会ったと言ったら、どう思われるでしょうか」ときくと、「幻覚と思われる」「病気と思われる」との答えが多かった。

「トトロと会ったこと」を「夢を見たんだろう」と解釈することは正しいか?これが、授業でとりあげてみたい臨床心理学的テーマだった。
たしかにトトロは子どもにしか見ることの出来ない夢(ファンタジー)である。しかし、それを眠って見た夢(ドリーム)と解釈するにとどめると、そは結局「夢のない話」になる。つまり、トトロとの出会いを生理現象「睡眠による夢見」に帰して解釈することで、いかにも「自然科学的に解明」したような気になることは、臨床心理学的には何の役にも立たないばかりか有害なのである。

なぜ有害か?答えは「発展性が無いから」である。科学的診断は客観的に判断するための「結論」となる。「結論」は「論の終結」を意味する。それ以上の発展は無いのである。

ところが、「メイは夢を見た。その夢はどんな夢だったのだろう。その夢が、メイにとって意味をもつとすれば、どんな意味なのだろう?」と夢を文学的にとらえようとして行けば、無機的な科学的診断から有機的な「見立て」に発展させることが出来るだろう。

サツキはその後、夢の世界に入って行く。メイとともにサツキもトトロや猫バスに出会うことが出来るようになる。その出会いは、ファンタジーとの出会いである。その発展は「祈り」がもたらすのである。祈りはファンタジーを生み出し、ファンタジーの力によって願いが実現して行くのだ。

【③に続きます】

藪添 隆一(2017年3月24日)