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教員コラム

歩みをとめて立ちどまる

私は音楽が好きです。気づくと小さい頃から途切れることなく、習いごとや部活で、何かしらの音楽を演奏してきました。今はもっぱら聴くばかりですが、やはり聴いていると、自分でも演奏したくてしかたがなくなることもしばしばあります。まだ眠い朝も、たぶん科学的根拠があるのでしょうが、その時の気分に合わせて音楽をながすと、不思議とスムーズに動きだすことができます。同じような人はたくさんいることでしょう。

本当に音楽だけに集中したい時は、やはりホールに足を運びます。昔からヘッドフォンは好きではなく、周囲に音が邪魔になる時だけしか使いません。それも年に数回程度です。ホールで聴く音楽からは、なんともいえない幸せなひと時をもらうことができます。好きな音楽に包まれる場所が近くにある私は幸運です。今このように文章を書いていても、指揮者がステージに現れ、拍手が鳴り、指揮棒を振り始めるまでの凛とした空気に包まれたくなります。このような特別な時空間は、この先もずっと、私のとっておきのストレス解消法でありつづけることでしょう。

私は趣味として音楽を楽しんでいます。しかしリズム、テンポ、音質、音量など、無限に存在する音楽の構成要素については、どうしてあれほど心に様々な響き方をするのかを、ぜひとも学びたいと思います。今のところ一番私を惹きつけるのは人の声です。人のムーブメントも好きです。音楽には幅広いヴァリエーションがあります。カフェをイメージさせる軽快なシャンソンやボサノバなどなど。元気いっぱいの時には、歌というより叫び声に近いジャズやフラメンコの荒っぽい音楽が聴きたくなります。おしゃれなイメージのジャンルを挙げ連ねましたが、とにかく広く浅く、いろんなジャンルの音楽を聴くことが私の生活の一部です。

ところが私は日本人でありながら童謡ぐらいしか知りませんし、日本の音楽には興味を持ったことがありません。私が親しんできた音楽は、ほとんどが異国の音楽です。日本で生まれた日本人なのに、なぜ日本の音楽を知らずにきたのでしょうか。昭和生まれの西洋文化信奉者だと言ってしまえばそれまでです。しかしこのように近くにある事象は、あまりに近すぎて、その存在を知らないままでいるということは、他にもたくさんあるような気がします。心理学で言えば、自分自身のことは客観的にとらえにくい、近くにいつもいる人なのに他の人の方がよく知っていることがあるなどは、まさにその典型といえるでしょう。

何かにいきづまった時は、いったん歩みをとめてみることが大切なのかもしれません。とはいえ、立ちどまるのはとても怖いことです。熱心に前進している(つもりの)歩みをとめる怖さは、他者には理解できないほどの不安を引き起こすことでしょう。再びもとの軌道に乗せるまでに費やすエネルギーを考えると、なかなか立ちどまる勇気がわかないものです。前進する勇気は、立ちどまる勇気の有無に大きく左右されます。新しい気づきは、やみくもに突っ走っても得られるわけではなく、一度立ちどまって日常をこれまでとは違う見方をすることにより、気づかれるものなのでしょう。

人として、日本人として、広い視野で遠くまでものごとを見とおすためには、まず自分のこと、自国の文化を知る、というステップは、不可欠なものです。近いものほど軽視してしまいがちですが、それは自己と向きあう怖さを回避するための、本能的な心の動きだととらえることができます。もし今の状況に満足できないのなら、一度立ちどまって視野をひろげる時期にさしかかっているのかもしれません。さて、どんな景色が見えるでしょうか?歩みをとめてみるときにも、できれば急ブレーキをかけずにとまりたいものです。

石谷みつる(2016年11月25日)