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教員コラム

京都光華の「講話」について

本学に赴任して数か月が経過しました。
今まで勤めていた大学と比べて、本学の特色はなにかと改めて考えてみますと、「講話を聴く機会が多い」ことだと気が付きました。私自身、1年、2年のクラスアドバイザーとして、学生とともに「学長講話」「宗教講座」「理事長講話」と講話をいっぱい聴く機会にめぐまれました。

学生の皆さんは講話は好きですか?「嫌い」と言えば講師に失礼なことは知っているから嫌いとは言えない?
しかし、本音を言えても「嫌い」と言う人はほとんどいないと私は思います。なぜかと云うと、講話の終わった後の、皆さんの雰囲気がとても良いからです。みんないい顔になってるなあと私は感心しているのです。
いい表情の素になっているのは講師のお話の内容や講師のお人柄が影響しているのだと思いますが、講話の背後には「光華」があると私は感じています。光華とは、と改めて私が説明する必要はありませんね。それぞれの講話の背景、根底に「いのち」がみえるのです。

先日、健康科学部心理学科2年生といっしょに理事長講話を拝聴しました。本学の学生が東北の実家に帰省していて地震と津波で御祖母様とともに亡くなったお話も伺いました。その悲しい出来事を機縁として本学の大学院生たちが被災地へカウンセリングボランティアとして毎年、赴いていることも伺いました。お話を聴く学生の空気が、あたかも被災地の真摯な祈りに触れているような、澄んだものとして感じられました。

お話が終わった後、私はそばに座っていた一人の学生Aさんに声をかけました。「あなたも被災地にご実家があるそうですね」と。
Aさんが被災地から本学に来ていることは知っていたのですが、その話を私の方からすることには、クラスアドバイザーとしても躊躇があったのです。心の傷に触れるようなことはしたくないからです。ところが、「被災地の心」が会場の空気に再現された直後、被災者Aさんに対して自然にお見舞いを言いたくなったのでした。

二十年前、神戸に在住しながら、大阪にある大学に通っていた女子学生が震災直後に神戸から大学に来て、「神戸の話をする気持ちが出てこなくなった」と言ったことを思い出します。被災地神戸の空気と、何事もなかったような大阪の空気の差がはなはだしく、失語症になったかのような状態だったのでしょう。
私が話しかけたAさんは、実家の近所の悲惨な光景を語ってくれました。ふだん無口なAさんですが、そのときの気持ちが直接、その語り方に表れていました。ご実家が無事だったことを聴いて安心しましたが、何よりも被災地の空気との落差を感じないで、お見舞いできたことがなによりありがたかったのです。

お互いの命の光を感じあう時間として、京都光華学園の講話は続いていると思います。これからも学生とともに拝聴し、語り合いたいと思っています。

藪添 隆一(2015年6月11日)