京都光華女子大学 健康科学部 心理学科 ニュース 「崖の上のポニョ」から考える ーその3

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教員コラム

「崖の上のポニョ」から考える ーその3

その2からの続き

どうしようもない性質を「業(ごう)」という。フジモトが憎む人間社会は「自然破壊」という業(ごう)をもっている。自然を自然のまま、ありのままに任せて見守ることが人間社会には困難なのである。

大昔の原始時代や文明から離れた未開社会であれば自然の風が流れ、人間は自然の守りの中で生活できていたのだろう。自然の風が守りとなっていた「風の谷」では、人々は必要なことしかせずに調和を保っていたのだった。「風の谷のナウシカ」では、この調和がくずれることからはじまる。過剰な欲を満たすための生産、戦争、破壊兵力をもつ文明社会が「風の谷」を侵襲するのだった。守りの風は吹かなくなる。自然の守りが無くなるのだ。

フジモトは人間を嫌い人間をやめた。しかし、人間の業(ごう)からは逃れることができていない。海底で「命の水」を研究し、溜め込み、地球の時間を原始の時にもどすことをたくらんでいる。「自然になる」「自然に生きる」ことができないで科学技術の人工的な力を頼みとしているのである。

またフジモトは子どもを操作的に扱う。守るつもりで閉じ込める。束縛する。

つまり、ポニョの自然な成長を見守り、自主性に任せることができないのだ。

抑圧すると爆発する。退行させると、より前進する。宗介の血、人間の血をなめた金魚姫は「好き」な宗介に会いたい思いが昂じて、手足が生える。半漁人に変身し、「命の水」を開放し、水魚の津波とともに陸地に戻って来るのだった。

宗介に再会した時には、ポニョは人間の女の子に変身しているのだった。しかし、「人間になる」ためには心の成長が必要である。それは宗介にとっても同じことである。「人間になる」ための心の成長が本当の「前進」なのだ。

どこまでも「好き」を実現させていくことは真の前進につながる。人間の前進は「破壊」である、とあきらめることなく、どう生きていくべきなのかを「崖の上のポニョ」で考えることができるのだ。ちなみに、宮崎駿の次作は「君たちはどう生きるか」であることを付記しておきたい。

藪添 隆一(2018年12月3日)