まど・みちおさんは、「ぞうさん」や「一ねんせいに なったら」、「やぎさん ゆうびん」など誰でも知っている有名な詩を残しましたが、その中に「つけものの おもし」という興味深い詩があります。
つけものの おもしは
あれは なに してるんだ
あそんでいるようで
はたらいているようで
おこっているようで
わらっているようで
すわっているようで
ねころんでいるようで
ねぼけているようで
りきんでいるようで
(中略)
つけものの おもしは
あれは なんだ
人は「もの」を見る時、その機能や有用性によって認識し意味づけをします。例えば、ハイデガーという哲学者は、世界にある「もの(物質的対象)」を、単なる客体ではなく、手元性(Zuhandenheit)をもつ道具的存在として捉えます。ハンマーは「釘を打つため」の道具であるように、私たちは普段「もの」を前にして、目的と結び付けて認識します。
またハイデガーは、「石」の存在様式について、世界を持たない(weltlos)、と言っています。峻厳な峰の連なりのようなハイデガーの存在論を理解しようと、私は何度も挑戦しては挫折してきました。それでもハイデガーを読むと、存在の深淵をのぞき込む際の目まいのするような感覚を覚えます。
一方、「つけものの おもし」はそうした目的や有用性を抜きにして、先入観を取り払ったまなざしで、「もの」そのものに向き合います。漬物の石と私は、存在しているという点でまったく同等であり、向かい合う静かな緊張感の中から、ユーモアに満ちたみずみずしい言葉が立ち上がります。
もちろん、社会生活を送る中で、私たちは周りの世界を自分との関係において位置づけ、自己を中心にした階層構造を作っていきます。人間関係で軋轢を起こさず、社会にうまく適応するためにも、それは必要なことでもあります。ですが、自己への執着に疲れを覚えるとき、まど・みちおさんの詩は、凝り固まった自己像をやわらかく解きほぐしてくれるように感じられます。まどさんには、「どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている」という言葉があります。そんな感性に触れ続けることで、私たちの「見る目」もまた、少しずつ変わっていくのかもしれません。
京都光華女子大学 心理学科
長田 陽一