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教員コラム

占いと心理学(中編)

前編からの続きです】

ここで、占いに戻りますと、占いというものの結果はまったく偶然に、何の理由もなく生まれます。ここには若干の異論もあるかもしれません。占いの結果は何らかの必然性に導かれて生じるものである、という考え方もありえます。ここは難しいところですが、とりあえず常識的に、醒めた目で見たら、その結果は純粋に偶然の産物だといっていいかと思います。そしてその、まったく偶然生まれた結果のなかにどのような意味をみつけるか、その一連の方法がその占いの性格を決定しているといえます。

たとえば易の簡単バージョンのやり方として、6枚のコインを投げてその表裏を見る、というものがあるそうです(サイコロでもできます)。コインの表裏の出方によって、そのとき自分が置かれている状況などを読みとります。コインの裏表の出方というまったく偶然の出来事のなかに、重要な意味が隠されていると考えるわけです。

こういうふうに考えてくると、占いと心理療法って、どこか似ていると思いませんか?まったく偶然に起こった、意味などないように見える出来事のなかに、「私」にとっての意味をみつようとする。そしてそこから、これから「私」が進むべき方向を探ろうとする。

ここで、どのように意味をみつけていくか、そのやり方とかその際の態度ということが非常に大事になってきます。下手をすると、そこで発見された「意味」のために、よけいに生きる力がそがれてしまうといったことにもなりかねません。かえって自分の人生に絶望したり、未来への不安を大きくしたり、といったことは、占いの副作用としておこりえることでしょう。

そう考えると、本当に占いを活用するためには、ある程度「私」に強さがそなわっている必要がありそうです。また、占いの結果を「私」が主体的に読みとり、ひきうけるといったことも大事になってきます。そうした強さや覚悟にくわえ、占いの結果と自分の人生とをむすびつける読みとりを色々な角度からみなおすことのできる柔軟性のようなものがあるならば、占いを人生の指針とすることも、けっしてあほなことではないだろうと思います。危ないのは、私たちが占いの結果にただただ受け身的に流され、さらにはのみこまれてしまうようなときです。

私たちが占いを気軽に楽しみとしてやってみようとするとき、あくまで受動的に結果をまつ、それもできたらよい結果をまつ、ということがあるかもしれません。むこうにおまかせで、ちょっといい気分にしてもらうことを期待して、というのが多くの占いをするときの気持ちではないでしょうか。それはそれで占いの楽しみ方として、ありだと思います。しかし、占う問題が人生を左右するような重大なものである場合、自分のとるべき道を何か自分とは別のものにおまかせしてしまうわけにもいきません。迷うときほど誰かに決めてほしい、あるいは客観的に正しい道を教えてほしいと思いがちですが、重要な問題ほど客観的に正しい答えは存在せず、「私」にとって何が正しいかを身銭をきってみつけていくほかはないと思います。

後編に続きます】

今西 徹(2015年10月26日)