私の親は昭和一桁生まれ。広島市郊外に夫婦だけで暮らしています。父はかなり足腰が弱っていますが、小柄で元気者の母が家事を担い生活がなりたっていました。
昨年末にその母が肺炎で入院。その後脳梗塞も併発し、一時は命が危ぶまれたのですが、リハビリ病棟に移り徐々に回復し、PT・OT・STの支援を毎日受けながら、来月にはもう一度自宅に帰るめどがたったところです。
私の勤務先は言語聴覚士養成課程なので、毎日のように成人リハビリの話題があがります。でも、自分の身内のこととなると、今も全く確実な情報や見通しをもつことができません。「要介護度」「ケアマネさん」なんとなく知っている用語も、「今・ここ」で直面すると、選択肢を説明されるだけではわからない。個別事例の状況とあわせて、「で、私は何をすればいいのか?」と誰かに答えを求めたくなります。
母の入院からずっと、誰かに聞いてほしい、という気持ちがあります。同世代で同じような経験のある友達や同僚にこの話ができること、吐露したものを「わかるよ、同じだった」と言ってもらい、アドバイスをもらえることがどれだけありがたいか。私が選んで口にのせる言葉は、仕事上の言葉とは異なってしどろもどろ、まとまりもありません。また聞き手の心情もホントのところはわからない。知っていて当然だと思っているのか、時間がかかるなあと思っているのか。それでも話を聞いてもらって、ホッとすることが最近何度もありました。
「あ・・。これが同じことなのだ」と思いました。2月22日に大阪で片耳(一側性)難聴の当事者・家族が35名ほど集まる交流会を開催しました。主催は「きこいろ」。このコーナーでも何度か話題に出している活動6年目の団体で、私が副代表をしています。
今回の対面での交流会は、「レクチャー(講師が聴衆に話す)」のではなく、その名の通り「交流」が目的。私を含めて片耳難聴当事者スタッフ5名が、2時間枠の中の75分というわりと長い時間を使って、6~7名ずつの5つのグループの話をすすめていくという形式です。
申し込み時にある程度の情報をいただき、事前にグループ分けをするのですが、それほど詳細なものではありません。私が進行を担当したグループは「家族を含めた」方々でした。全員が初対面です。集まってみると、成人になってからの突発性難聴の方とその伴侶の方、新スクがきっかけで片耳難聴がわかった幼児さんとその保護者、がおられて、当初は正直「あら、共通の話題にならないかも」と不安もありました。
最初に「さて、どなたから・・」と話をふると、ご夫婦で参加された二人のうち、突発性難聴当事者(片耳難聴)のパートナーの方から手があがり、つい最近の発病の経過や聴力とめまいについて訴え始めました。「何か役に立つこと・・・どうしたらこの人が治るのかという情報がほしくてきました」と藁にもすがるような表情です。続いて、若い突発性難聴の方が複数人、ご自身の経過や生活について話されました。「私も最初はめまいがひどかったけれど、数ヶ月で落ち着き、今は自転車で仕事に行っている」「スケールアウトだったのが、今は70dBぐらい」「耳鳴りには、補聴器のようなのをつけて、いつも気にならない程度の音楽を流している」などの話のあと、最初のかたが、ふっと憑きものが落ちたような顔で「そうですよね、皆さん片耳難聴だから参加されてるのですね」と言われました。はい、「治るための情報」がはっきりとある会ではないのです。でも、他の参加者からは「ご家族がこんなに親身になって一緒に会に参加してくださるなんて素敵な関係ですね」と声をかけられていました。
幼児の保護者からは「お医者さんは大丈夫だと言われたけれど、育児や生活でどんなことに気をつけたらいいのか」「男の子で走り回るのだけど、道路など屋外やスポーツの場面で危険はないのか」「子どもから片耳聞こえないことについて聞かれたらどう答えたらいいのか」という質問がでます。
私は、自分がしゃべりすぎないように注意しながら、「突発性難聴は・・」「新スクとは・・・」と用語をグループで共有し、現在工夫している話や肯定的な話に共感しつつ、話を進めました。
75分はあっという間に過ぎます。冒頭に話された方が最後に「dBという言葉も知らなかったし、母子手帳に新スクの記載があることも全く知らない。私は還暦近くまで生きてきて、パートナーがこのようなことになって思いもよらない世界に出会った。みなさんの話を聞くことで、治る話ではなかったけれど、ちょっと落ち着くことができました。子どもさん、とてもかわいかった。」と言われました。
「介護制度」「突発性難聴」「新生児聴覚スクリーニング」こんな用語は、みんなインターネットで調べられます。ある程度確からしい情報を得ることができるし、動画もあります。
でも、自分の体験や自分の思いを言葉にし、実際に対話のできる場や時間というのは、また次元が異なって必要なものではないでしょうか。「うまくはしゃべれないけど、ちょっと聞いてほしい」。どれだけ教科書に書いてある事象であっても、「私」には初めてのこと。直面したときにうろたえ、たちすくむときに、本当に支えになってもらえるのは、顔のある人なのだと思います。