2025.11.27 教員コラム

デフリンピックによせて

(この文章は、デフリンピック閉会式の前日、11月25日22時に書いたものです。)

 2025東京デフリンピック。今日はバスケットボール女子やバレーボール女子の金メダルの速報が飛び交う、嬉しい日でした。サッカー男子日本代表は、決勝戦でアジアの覇者世界ランキング3位のトルコと対戦し、悔しくも1-2という最小得点差で敗れました。2年前のワールドカップに続いての「銀メダル」。夕方17:30からの決勝戦はYouTubeでライブ配信されたので、テレビの大画面に映して臨場感を味わいました。

 予選ブロックから振り返ると、2日に1回、45分×2=90分の試合が6試合。選手達の肉体的な疲労度は想像以上だと思いますが、最後まで全力で駆け抜けた一人ひとりが、胸に銀メダルを抱き、豊かな表情をしていました。トルコの選手たちの喜びを爆発させている姿も、悔しかったけれど感慨深いものがありました。

デフリンピックのサッカーの会場は東京ではなく、福島県双葉郡のJヴィレッジです。
*Jヴィレッジとは、2000年代にJリーグが全国の若手養成のためにサッカーに特化して作った 面積49㏊の広大な施設です。メインスタジアムを合わせるとサッカー競技場は10つ、屋内練習場、巨大なホテルも含めた宿泊施設などがあり、常磐線にはJR「Jヴィレッジ駅」があります。しかし、この施設の完成とほぼ同時期に東日本大震災が起こりました。原発事故の近くにあったこの施設は、その後何年も東北の復興の拠点とされ、ようやく2,3年前に本来の目的であるサッカーの競技場として使われ始めたのです。

 かつて中学校難聴学級担任をしていた時の卒業生、堀井聡太選手(現在大阪で(株)ヘッズ勤務、地域のサッカーチーム『マッチャモーレ山城』所属、26歳)が、出場するとのことで、11月16日(日)の対メキシコ戦に駆けつけました。天然芝の美しい芝生。福島の空は青く広く、日が落ちると劇場が浮かび上がるように美しく映える、夢の舞台でした。

 両側重度難聴の堀井選手には、ここ数年私が担当しているいくつかの大学の授業のゲストとして話題提供をしていただいています。会社がデフサッカーのゴールデンスポンサーでもあり、こうした依頼を勤務に準じてカウントされていて、京都では小中学校でも講演依頼がよくあるそうです。 この秋もデフリンピック目前にもかかわらず、何度か授業に来ていただきました。

 彼は京都府下の城陽市出身です。四半世紀前というのは、新生児聴覚スクリーニングはまだ普及途上。堀井選手は、1歳後半で難聴の診断を受け、うさぎ園(旧:難聴児通園施設、現:児童発達支援センター)⇒京都府立聾学校早期教育相談⇒幼稚部⇒京都市固定制難聴学級小・中学校(クラスメイト6~7名)⇒サッカー名門校である東山高校(サッカー部員は128名!)⇒龍谷大学理工学部と進みました。

 幼稚部の卒業アルバムには、かわいい写真の横に自筆で「サッカーせんしゅになりたい」とあります。小中学校時代は自宅がある地域のサッカーチームに属していました。中学校時代は、膝や腰の大きな怪我で運動を制限される期間があり、それが体育大会(運動会)とも重なりました。体育的な行事は、難聴学級生徒は交流学級に分かれて参加します。足の速い堀井君が入ってくれると、本来なら交流学級では大歓迎されるところ、ドクターストップがかかり見学を強いられたときの辛そうな表情はよく覚えています。とはいうものの、もともと明るく誰にでも優しい彼は、難聴学級男子5人の中で、バレンタインデーには毎年一番多くチョコをもらっていましたが。

 高校時代には、たくさんの壁にぶつかった、と語ってくれます。サッカーは体力や技術だけでなく声をかけあうチームプレイが重要。レギュラー争いも熾烈です。「補聴器しているのに、一番前にいるのに、なぜ聞こえないのか」と言われたり、集合時間の「7時」と「1時」を間違えたりしたことを、「自分のきこえについて、周りに説明できる力が足りなかった」と振り返ります。でも、本当にそうだろうか?それは彼個人の足りなさではなく、それまで難聴学級で関わっていた私を含めた大人の準備不足や、高校側の理解不足だったのではないか。今だったら彼自身を含めて誰がどう行動できるのか、と考えを巡らせます。

 デフリンピックサッカーの選手たちは、ほぼ全員が聾学校以外の学校出身です。聴力の軽重にかかわらずおそらく選手一人ひとりにこうした壁にぶつかった経験があり、と同時に「好きなサッカー」を選び継続する気持ちもあったのだろうと想像します。朝の練習で早起きする自分よりももっと早く起きて毎日弁当を作ってくれる母や、いつも熱い思いで応援してくれる父の存在は、サッカーを続ける彼のエネルギーでした。

 授業のゲスト時には、堀井選手はクイズなどを取り入れた楽しいパワーポイントを作ってきてくれます。「日本代表サッカーチームのエンブレムに使われている動物は八咫烏ですが、デフサッカーチームのエンブレムに使われている動物は何でしょう?」とか。(答え:タツノオトシゴ)その他に、彼が日本代表になってまもない2018年アジアカップの決勝戦前のピッチ集合の写真を見せて学生にこんな質問を出します。「この試合前、立派な競技場のピッチに立って、僕は不覚にも泣きそうになった。その理由はなんでしょう?」決勝戦まで進んだ感動?・・・違います。広い立派な競技場の観客席にほとんど人影がなかったことに対する悔しさの涙だった、と語ります。この時から、堀井君の夢は「満員のスタジアムで日本を代表して試合をすること」になったのだと。

 11月16日。私も手作りの段幕をもっていきました。それぞれの選手のスポンサーからもたくさんの横断幕や応援グッズで観客席が彩られます。「満員」ではなかったけれど、試合中ずっとエールが響き、手を動かし観客みんなが参加できる時間を作ることができました。

 堀井選手は、身長は160㎝台で、体格的には外国人選手と比べると圧倒的に不利です。難聴学級の同級生で彼の昔からの友人Aさんが私に教えてくれました。「普通、サイドバックには背の高い選手をおくものだ。ロングパスをとるのに有利だから。でも、堀井はサイドバック。なぜかというと走るのが速いのと、視野が広いから。声よりも速くに味方の視野に入って連携ができるから、だからチームメイトから頼られるんだ」試合をみる視点がかわりました。常に頭を高く掲げて左右を見て試合全体をつかむ姿勢に納得しました。

 現地観戦をして、もう一つうれしかったことは堀井選手の応援に難聴学級時代の同級生3人も駆けつけたことです。そのうちの一人前述のAさんは東京で社会人5年目。同じくサッカーをしていたので、試合中ずっと後ろの席の私にプレイや選手の解説をしてくれて、とても助かりました。準決勝・決勝も現地応援しました。他の2人は関西から休みをデフリンピックに合わせてとり、先ほどの同級生と3人でレンタカーでの福島の旅も楽しみました。そのうちの一人社会福祉士として働くBさんは、福島の震災遺構も巡りました。若者の好奇心、見てやろう行ってやろうという気持ちと行動力は大好きです。この話には楽しいエピソードもついてきました。夕食のために3人で店に入った際に「福島県の有名な日本酒『飛露喜(ひろき)』が一合だけついてきたそうで、運転手役のBさんが、自分は一口も飲めないなら「せめて両手を飛露喜でアルコール消毒したい」と言い出したのだとか。

 社会人になっている彼らは、場面や相手によってコミュニケーションモードをかなり自由に変えています。聴覚障害のある仲間同士での手話、家族とはキューも使わない速さでの口話。中学校時代からの長いつきあいの中で100dBの若者たちの聴覚口話と手話を交えたやりとりは、暮れなずむ観客席で、周囲の闇が深まっても途切れることなく続いていました。

 固定制難聴学級がある中学校では、周囲の大多数のきこえる中学生の中に、難聴学級や聴覚障害のある中学生との出会いが何かのきっかけになっていることも少なくありません。近畿で聾学校の教員になった方も複数います。手話通訳士の資格をとって公務員を続けている、長岡京市の吉田明代さんは、デフリンピックに手話通訳として派遣をされていました。仕事の合間には東京での観戦を楽しむ、と連絡をくれました。

 本当に楽しみにしていた夢の舞台が終わってしまいます。けれど若者のそれぞれの日々の生活は続いていきます。一生懸命になれる好きなことがある。社会に興味をもち、できれば自分の力を活かした仕事ができる。話したいときに話せる仲間がいる。最近はやりの言葉「セルフアドボカシー」とか「セルフエステーム」を使わなくても、多少折り合いのつけかたがうまくなり、めんどくさいことにも、まあしゃあないか、とつきあっていくことができれば、それはそれで自分らしい生き方になるんじゃないでしょうか。

デフリンピックという夢の舞台を少しだけ共有させてもらって、若者たちに本当に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。 (高井小織)

 

 

 

 

 

一覧に戻る