【②からの続きです】
「運がよかった。森のぬし、に会ったんだから」というようなことをお父さんは言ったね。これはすばらしい答えだと思う。
と私は授業で言った。このお父さんの言葉が臨床心理学的「見立て」なのである。「見立て」は医学的「診断」ではない。「結論」ではなく「出発点」「展望」なのである。
お父さんまでもが「メイ、それは夢を見たんだよ」と言ってしまったとしたら、物語は終結してしまう。トトロや猫バスの出る幕はなくなってしまう。サンタクロースの存在を信じている子どもに、「サンタクロースはいないよ。プレゼントを枕元の靴下に入れてくれるのはお父さんとお母さんなんだよ」と教えてしまえば、その子にとってのファンタジーは終わってしまう。物語は終結してしまう。
「それは森のぬし」との見立ては、お父さんの思いつきではない。この父親は大学の研究者で民俗学による神話・伝説・習俗などの専門的知識を膨大に知っている人のようである。膨大な知識は知恵を生む。知恵とは人生についての正しい見立てなのである。
塚森のくすのきの大木に参拝するとき、「昔々、木と人は仲良しだったんだ」とお父さんは言う。大木に宿る神を祭る水天宮の社には今も信仰を集めている証として絵馬がぶらざげてあるのを見ながらの言葉には深い意味が感じられる。
父「気をつけ」三人が気をつけする。
父「メイがお世話になりました。これからもよろしくお願いします」
サツキ・メイ「おねがいします」
日本人の祈りは「あいさつ」なのである。神は上(かみ)にいるものなのだが、西洋の神(ゴッド)とはちがって、あがめ奉るべき絶対者ではなく、すぐそこの上座とでも言うべき、まさしく「となり」に存在する「もの」なのである。だから祈りも「あいさつ」がふさわしい。
「もの」とは形を特定しがたい気配である。「もののけ」とは「なにか神秘的な気配を感じさせる何か」なのだ。その「もののけ」の「ぬし」は大木の中に住んでいる。「ぬし」と出会うことができるのは「運のいい」ことなのだと父は言った。
父の「見立て」とフレンドリーなあいさつという「祈り」の躾(しつけ)はサツキとメイの守りにつながっていく。
【④に続きます】
藪添 隆一(2017年3月24日)