“今日は疲れたなぁ”…いつもより遅い時間帯に最寄り駅から自宅に歩いている帰宅途中、私はいつの間にかある歌を口ずさんでいました。それは、私が思春期の頃によく聴き歌っていた歌でした。私の頭にはなぜかその頃の場面や雰囲気が思い浮かんでいます。“あれ?私はどうしてこの歌を口ずさんでいるのだろう” “なぜ思春期のあの場所のあの雰囲気が浮かんでくるのだろう”と不思議に思いました。ああ、今のこの感覚は思春期のあの頃に体験した感覚と似たものかもしれないと、私はぼんやりと考えていました。また、悩み多かったあの頃の私は、この歌にずいぶんとなぐさめられ、頑張ろうと思えていたなぁと思い出してもいました。
なぜある曲を聴くと、その曲をよく聴いた頃の情景や雰囲気が思い浮かんでくるのでしょうか。なぜ人は、自分の心情に合った曲を聴き、歌を口ずさむのでしょうか。なぜ人は、つらい時や悲しい時に、明るい曲ではなく暗い曲を聴くのでしょうか。そんなことは言わずもがなと言われそうですが、考えてみると不思議です。先日、疲れた私が口ずさんだ歌は明るい歌ではなく、どちらかというと暗い歌で励ますようなところは何もありません。けれども、私は口ずさみながらあれこれ思い、そして少しだけ前向きになれたのです。
ある匂いを嗅ぐと、勝手に子どもの頃の記憶が甦ることがあります。これはブルーストの小説『失われた時を求めて』にちなんで、「ブルースト現象」と呼ばれています。主人公が紅茶に浸したマドレーヌを口にしたとき不思議な快感が湧きだし、昔親戚の家で紅茶に浸したマドレーヌを食べたことを思い出し、さらに、かつての幸せな記憶が甦ってきたというものです。匂いは、記憶と感情をつかさどる大脳辺縁系に直接つながっていて、古い記憶と感情を直接甦えさせるそうです。音楽もまた大脳辺縁系を強く刺激するそうで、曲を聴いていた時の出来事だけでなく、感情もセットで甦ってきます。とりわけ、10代~20代にかけて、悩みや喜びや恋など強い感情と共に聴いた曲は、自分自身の記録となっているようです。ある曲を聴くと過去の記憶が甦ってくるのは、過去の記憶を甦えらせるトリガーではありますが、その曲が自分自身の重要な体験記録でもあるのです。
さて、もう一つの不思議、人はなぜ自分の心情にマッチした曲を求めるのでしょうか。悲しい時やつらい時に暗い悲しい曲を聴くと、さらに暗く悲しく落ち込んでしまいそうですが、アップテンポの楽しい曲はかえって疲れて聴かないし、やはり自分の心情に合った曲を聴きます。その時の心情に合った波長の曲を聴くと、寄り添われたような安心感が生まれます。また、それが自分の心情に近い歌詞であるとなおさらで、前意識に近いところでの“この感覚、それ!” “ぴったり”といえる感覚になります。よくわからない感覚や感情を、その心情にあった波長で抱え、ぴったりな言葉で表現してくれる曲は、心に安寧と他とのつながりとエネルギーをくれる不思議な力があるようです。
京都光華女子大学 健康科学部 心理学科
准教授 淀 直子
