【前編からの続きです】
なぜ 花はいつも
こたえの形をしているのだろう
なぜ 問いばかり
天から ふり注ぐのだろう
(岸田衿子「なぜ 花はいつも」)
私の専門領域は臨床心理学です。ですが研究においては、一見すると臨床心理学と関係がなさそうに思われることをテーマとして採り上げています。たとえば、ここ数ヶ月取り組んでいるのは「花はなぜ咲くのか」というテーマです。この一文はある時突然やってきたのですが、これまで無意識に堆積された土壌から芽が出てくるように、唐突に見えても何らかの必然性があっての着想ではないかと思って、いろんな文献を調べてみました。
こう言うとどこか神秘的で神がかり的な印象を持たれるかもしれませんが、アイデアとはそういうもので、研究の発端となる着想も変わらないのではないかと思います。もちろん、そのうちの99%は使えなくて捨てられるか、ノートの片隅でいつかふたたび思い出されることをひっそりと待つことになります。「花」については、いくつか調べていくうちに、かつて考えていたいくつかのアイデアと結びつき、さらにそれらを思ってもみなかった方向に展開させてくれそうでした。さらにこれが、「さまざまな現象を説明しうる根源的なものに触れるような、いわゆる本質的な目標」となる可能性があるかどうか、いろんな問いかけを試してみました。
「花」とは私にとって何だったのか? 「咲く」とか「枯れる」とはどういうことか? 「花が咲く」とはどんな隠喩か?人はどんな時に「花」に語りかけるのか? 「花」はなぜ巡りくるのか? 去年咲いていた「花」と今年咲く「花」は同じなのか異なるのか? なぜ徒花(あだばな)は存在するのか? 何を書くことができれば私は満足感を得られるのか? それが示された時に世界はこれまでと違う景色に見えるのか?
これらの問いかけにどうやら肯定的な答えを返してくれそうに思えたので、研究テーマとして設定することにしました。ちなみに、研究では論理とそれに基づく批判が不可欠です。研究の言葉は論理や客観性という共通のものさしで組み建てられていきますし、それに耐えられない思想はただの思い込みにすぎません。ただし、論理のために研究が存在するのではありません。論理や客観性は《未知なるもの》を思考するための道具であって、《未知なるもの》からすればこれらは欠陥だらけの道具にすぎないのです。研究において、そうした道具を縦横に使いこなすスキルは絶対に必要ですが、それを限界まですり減らしながら変容させていくこともまた必要なのだと思います。
長田 陽一(2016年5月30日)