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教員コラム

なまえ(その2)

 村上春樹の短編小説「品川猿」1) には、名前どろぼうの変な猿が出てくる。教養ある夫婦に育てられて言葉もしゃべることができるこの雄猿は、育ての親が亡くなった後は、品川の下水道に潜むように棲んでいる。猿は猿としての自覚があり、人間の女性とは結ばれることができないとわかっている。恋い焦がれた女性の、せめて名前だけでもと、名前が記された小物を盗み、我が物として愛でるそうである。名前を知らぬ間に盗まれた女性は、ときどき自分の名前を思い出せなくなるのだ。名前が逃げ出す症状が頻繁になり、安藤みずきは品川区役所の「こころの悩み相談」に通いはじめる。格安料金ではあるが「きもちよさそうに太った」中年女性カウンセラー坂木哲子に自分自身を語るうちに、みずきは自分の人生があまりに平凡すぎることに気づく。

 品川猿は名前を盗ると同時に名前に付随するこころの闇を除去できると言う。

 猿は名前の持ち主のコンプレクスをも盗むのだろう。

 名カウンセラー坂木哲子のカンのひらめきで名前どろぼうの猿は捕まる。命乞いする猿の助命の条件としてみずきは自分の名前に付随していたコンプレクスを猿から聞き出すことができたのだった。

 みずきは母親と姉に愛されていなかった。そのことに気づかないように「愛されたい気持ち」を心の闇に閉じ込めてしまっていたのだった。名古屋の実家から遠く離れた横浜の中高一貫教育女子校に寮生活したのも、「母親の母校だから」との理由で実は母に遠ざけられていたのだった。

 愛を希求する本音を抑圧するみずきは、本音で生きることを避けてきたのである。あまりに平凡でドラマ性のない人生とは、生きていない人生である。

 恋い焦がれる女性と会うことも叶わない品川猿は、女性の名前を盗み、名前を愛の対象としてこころを満たそうとした。名前には、対象の美しいこころばかりでなく、醜い部分、本人も目をそらしている負の要素も付随している。猿は、美も醜も併せて引き受け、愛していた。

 なぜ、品川猿にそれが可能だったのか。触れることすらできない野獣だったからである。「美女と野獣」「君の名は」はプラトニックラブの原型なのである。

 1) 村上春樹「品川猿」東京綺譚集 2005 新潮社

藪添 隆一(2020年2月27日)