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教員コラム

耳の記憶

教師になって2年目に盲学校で中学部1年生5人学級を担任した。全盲男子2人、女子1人と弱視男子2人のクラスだった。私は高校国語科教諭採用だったので、盲学校はわずか1年間のみ勤務しただけで翌年には県立高校に転じたが、盲学校の彼らとのかかわりは濃密なものだった。これは京都光華女子大学での授業資料「教師とカウンセリング」のもととなっている「学校カウンセリングの実際」(1992 東山紘久・薮添隆一 創元社)に詳しい。

その中学生だった彼らも今では50歳代後半の年齢である。44年前の1年間だった。

そのうちの1人、女の子のAちゃんと偶然出会った。白杖をついて、仲間らしい数人と歩いてきて私の座っている席の近くの席に着こうとしていた。一目で彼女だとわかった。中学生の顔がそのままだった。「Aちゃん」と声をかけた。「あ」とこちらを向いて「薮添先生」と笑った。そして立ったまま、クラスメート1名の病死を報告した。自分はこのとおり元気だとも言った。仕事の時間が迫っていたので再会を約束して別れたのだった。

44年間の耳の記憶。それは驚くことではないのかもしれない。私が一目でわかったように、彼女は一聴でわかった。当たり前かもしれないが、うれしかった。

耳の記憶その二番目。私にも思い出すことができる音があった。

中学生になったころからオーディオが好きだ。今では当たり前のステレオ放送が始まった時には、ラジオを2台鳴らして、立体音響を楽しんだ。NHKの第一放送と第二放送が左右の音を分担し同時に鳴らす実験放送が始まったのだった。FMはまだ無かった。

それが小学生高学年の頃だった。中学二年生の時に大阪堺市から東京中野区に転校した。ステレオは進化し、レコードもLP(ロングプレィ)になっていた。東京秋葉原でサンスイのステレオを買ってもらった。そのころ、ラジオはビートルズ一色で、ビートルズの値打ちはLPで贅沢に聴くと私にもわかった。というのは、髪の毛をおかっぱみたいに伸ばした彼らの音楽は、「不良(非行)の騒がしい騒音」と毛嫌いする偏見も多かったので、やかましいだけのものとの先入観が、保守的な中学生だった私にはあったからなのだ。ところがビートルズは深くて艶のある音響と音色、いわばシックな音楽で、泣き叫び失神する女の子が続出するコンサートの隠し味として上質のサウンドがあったと気が付いたのだった。

やはりオーディオの音そのものに熱中していた私は、ビートルズよりもクラッシック音楽、主にオーケストラのレコードを聴いていた。

東京での中学時代には、オリンピックが開催された。中学生は希望の種目を見学に行くことができた。マラソンのアベベの力走を甲州街道で見た。ボクシングの見学に行った。隣の席に来て我々中学生に解説してくれたトレーナーを着た青年が、「じゃあ、僕の応援、頼むよ」とリングに上って、見ている間に優勝した。後にプロボクシングに転じた桜井選手だった。

オリンピックが終わり、秋風が吹くころに、私は初めて本物のシンフォニーを聴きに行った。チケットは自分で買ったと思う。一人で上野文化会館の指定席に座っていた。最前列中

央、指揮者クーベリックの長身が伸びあがり足りず、飛び上がって着床する革靴の下からほこりが舞い上がっていたのを覚えている。演奏していたのはバイエルン放送交響楽団。たしか、ドヴォルザーク「新世界」だった。記憶は、演奏会終了後、会場から夜の上野に出る聴衆に交じって歩いた時に、夜の空気がことさらに「澄んでいる」と感じたことだけで、あとは消えている。

さて、先日のこと。あの頃のラファエル・クーベリックとバイエルン放送交響楽団の復刻CDが発売された。55年前の同一指揮者と楽団がなつかしく、聴いてみた。

最近は私のオーディオも進化した。演奏も毎年のようにベルリンフィル、ウィーンフィルを聴くことができている。聴く耳を成長させることができているかもしれない。さて、あの音が聴こえるだろうか?・・・・・聴いて驚いた。あの中学3年生が聴いた音!伸びあがる、飛び上がる長身のクーベリックが聴こえるではないか!

Aちゃんの記憶と私の記憶。耳の記憶は、心の記憶なのだ。

藪添 隆一(2020/12/10)