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教員コラム

教員コラム(今西先生)

なんとなく、村上春樹小説『騎士団長殺し』を再読する

 今年の3月ごろ、特になにがというわけでもなく、妙に気分が沈んでおりました。「抑うつ気分」というのはこういうものかなとか思いながら、ともかく耐え忍ぼうと、空いた時間には、ただひたすらぼんやりだらだらと過ごしていたのですが、臨床心理学者の岩宮恵子先生が『思春期をめぐる冒険』という村上春樹の小説について心理療法と関連づけて論じた本のあとがきで、村上春樹の小説をヘビーローテーションで暇さえあれば読み返す、と書いておられたのをふと思い出し、なんとなく『騎士団長殺し』という村上春樹の小説を読み直してみる気になりました。
 普段、一度読んだ小説を読み返すことはあまりしないタイプで、この本も2017年に出版されたときに読んだきりになっておりました。
 まず驚いたのは、びっくりするほど内容を忘れてしまっていることでした。おかげで、次どうなるのだろうと新鮮な気持ちで楽しんで読み進むことができました。また、物語の冒頭で、30歳代半ばの男性の主人公「私」が、ある3月半ばの午後、突然妻に別れを切り出され、そのまま家を出て、冷ややかな雨が降る中を車であてもなく走っていき、そこから約1か月旅を続ける、というエピソードがあるのですが、なぜかその時の自分の気分にぴったりきて、いきなり小説世界にどっぷり入っていくことになりました。
 ちょっとした暇ができたら読む、という形で、ちびちびと、わりと長い期間をかけて読んだのですが、読み終わったころ、抑うつ気分からはすっかり抜け出していました。小説のなかで次々と展開される複雑怪奇、奇妙キテレツな世界を追体験していくうちに、自分の中で何かが変わっていく感覚がありました。
 ああ、小説というのはこういう効用もあるのか、と実感しました。ただ単純に面白くて、よかったというのもあったのですが、それだけではないように思いました。じゃあ、なにがあるんだと言われると、なかなか言葉にするのは難しいのですが・・。
いわゆる「現実」、こちらの世界というものは、時に息苦しく、気分を滅入らせるものでもあるかと思いますが、それとは別の世界、あちらの世界に入り、あちらとこちらを行き来すること、そのことそのものが救いとなる、という面があるように感じました。映画やドラマ、漫画、ゲームなどが癒しとなるのは、同じような仕組みかと思うのですが、小説は自分が文字を読んで、イメージし、想像力を働かせる必要があるところが特殊です。向こうの世界に行くのにある程度の努力を要する分、向こうの世界の感触が実感として残りやすいというか、自分自身に影響を強く与えるというか。
 ということで、以上、最近の印象に残った読書体験のご紹介でした。

2021年6月15日 今西 徹