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教員コラム

「同い年」について

7月にリビング京都の取材を受けました。

『読者の“同い年”エピソード』という特集記事のための取材でした。

大人になってから出会った人が「同い年」だと知ると突然親近感が湧いて仲良くなったり、ライバル意識が芽生えて互いに成長したりといった、同い年ならではのエピソードを読者から募集して紹介するという特集で、そこにあわせて載せる心理学の視点からのコメントを求めて、記者さんが大学まで来てくださいました。

リビング京都の9月10日号に掲載され、ホームページにも掲載されていますので、よろしければご一読ください。 読者の“同い年”エピソード – リビング京都https://kyotoliving.co.jp/topics/38000.html

「同い年」の関係性について、集中して考えたことがなかったので、取材はいい機会になりました。自分自身、初めて就職した大学で、慣れない環境で不安な気持ちの中、同い年の同僚がいてくれて非常に救われた気持ちになり、その同僚といい関係を築けて、お互いがその大学を離れてからもいまだに交流が続いているという経験があるので、非常に興味深かったです。

考えてみると、同い年に特別な感情を抱くのは、やはり日本人独特の感性のように思いました。基本的に人見知りで、その分、自分自身と共通性、類似性のある仲間を大切にする。「内」と「外」がはっきりしていて、「内」の人同士では非常に親密につきあい、一方で「外」の人たちとは一定の距離を保ってつきあう。これはわりと古典的な日本人的な人間関係のあり方で、今でも生きているのではないでしょうか。その際の共通性、類似性として「同い年」ということが機能するということには、逆に年齢が違えばそこに「先輩・後輩」「目上・目下」という距離が発生する、これも古典的な日本の文化が関係しているのではないかと考えます。

あるテレビ番組で、欧米の人はエレベーターで他の人と一緒になったら、それが初対面の人であってもたいてい話しかけ、会話をする、ということを言っていて、非常に驚いたことがあります。出身地はどこか、など、お互いのルーツを聞いたりするのだそうです。日本では考えられないですよね。人はお互いに違っているということが当たり前のこととしてあり、だからこそお互いを知ろうと自然に関心を持つことができるのだろうと思いました。

「同い年」をきっかけに仲良くなれたり、刺激を与えあえたりするのはいいことですし、日本人的な親密な人間関係のあり方も大切にすべきものだと思います。一方で、共通性がすぐには見出せない、異質な相手、異文化の相手とどう関係を作っていくのか、という点で日本人は苦手なところがあるのかと思います。自分自身がそうなので、身に染みてそう思います。そこで自戒をこめて、生まれ育った文化や環境の異なる他者に関心を持ち、関り、知ることで、どこかに文化を越えた共通性を見つけ、親近感を持つことができるようになれば、素晴らしいことだ、これからの人生はできることならそうありたい、とも考えました。まあ、人見知りの性格はなかなか変わらないような気もしますが…。

2022年9月29日 今西徹

リビング記者さんと今西先生