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教員コラム

なまえ(その1)

 どこの国の神話にも、神が世界をつくる最初の行為として「命名」が描かれる。あらゆる物事や場所の名前をつけていくのである。名前がつけられてはじめて世界が定まっていく。神話は「いかにして世界ができたのか」を記録した原始の歴史なのである。

 大昔の人たちは、神が世界を創造したと信じていた。神話の創世をミュージカル仕立てで再現して、この世の始まりを全員で演じ、「今年の始まり」を祝った。祝っていると、世界は改めて最初から始まるのである。リフレッシュして全ての物事がリニューアルされるのである。「お正月」はその名残なので、元旦の神聖な空気は、世界の再生イメージが現代人の我々にも残っている証なのである。正月がめでたいのは世の誕生日を祝う気持ちのあらわれなのだ。

 名前を与えることで世界ができる。これは、個人の歴史においても同様で、名付けられて「あの子」が太郎に、「この子」が花子になる。その人独自の歴史が始まる。命名は最初のアイデンティティーを付与するのだ。

 子どもが成長して大人への節目を迎える時、第二のアイデンティティーが生まれる。子ども時代は親に与えられた自分で生きる。大人時代はオリジナルな手作りの自分で生きたいと思春期、青年期は願う。そのとき、親のつけてくれた名前が嫌で変更したくなる人もあらわれる。昔の成人式、イニシエーションでは、神のもとで新しい大人の名前をもらう儀式があった。同様に、歌舞伎役者、落語家等伝統芸人の襲名も先代の名人芸を引き継ぐためのアイデンティティー・グレードアップなのだ。自分の名前を変更したがることも、一種のイニシエーションであろう。

 イニシエーションはもともと神のもとで行われるべき宗教儀礼行為であった。伝統文化と神仏の聖なる時空に守られた行事だった。イニシエーションにおける「変身」は存在の「死」と「再生」であり、人の力の限界を超えた「守り」を必要とする危険なものなのである。

<なまえ(その2)に続く>

藪添 隆一(2020年2月27日)