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豊臣秀吉が主人公の能「明智討」

こんにちは。京都光華大学短期大学部ライフデザイン学科教員の久世奈欧です。

もうすぐ6月です。6月といえば、本能寺の変ですね。本能寺の変は、日本史上でも有数の言わずと知れた大事件です。

天正10年(1582年)62日、京都の本能寺(現在地とは違う、中京区小川通蛸薬師元本能寺町)に逗留中であった織田信長を、家臣の明智光秀が襲撃し、信長は自害します。その知らせを備中高松(現岡山県岡山市)で毛利攻めの最中に受け取った豊臣秀吉は、迅速に毛利と講和を結び、10日ほどで京都へ到着し(中国大返し)、明智軍と戦闘。逃げ延びた光秀は小栗栖(現京都市伏見区)で農民に殺害され、秀吉が天下人となる契機となりました。

この辺り、今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」での描かれ方も気になるところですが…今回は、この変後の戦いを題材にした「明智討(明智)」という能についてふれてみたいと思います。

晩年に能に凝った秀吉は、なんと自分を主人公にした能を作らせ、それを自分自身が舞ったというのです。「明智討」のほかにも「柴田」や「北條」など、十番の能が知られています。能では武士を主人公とするものも多くありますが、それらは平家物語など古典に材を取るものであり、このように存命中の人物が主人公という曲は他にありませんでした。

さて、能「明智討」は、秀吉が「征夷将軍」信長死去の報せを受けたところから始まります。秀吉は居ても立っても居られず、信長の仇を討つため京へ馳せ向かいます。また光秀のことを「外には柔和忍辱の姿、内には逆心無道」で心の奥が知れない人物とし、今回の変は「天下を奪い、名を後代に留めんため」と断じます。そして山崎にて衝突する両軍ですが、光秀軍は陣を崩し勝竜寺城に後退。光秀は闇夜に紛れ城から淀へと逃げます。そこに秀吉が追い付き、光秀の兜の真っ向を打ち割り、討ち果たしたといいます。最後に秀吉の「忠勤」と「威勢」を称えて本曲は終わります。

ここで歴史をよく知る方は、いくつかの脚色があることに気づくと思います。

まず信長は征夷大将軍になった事実はありません。そのことは作者もわかっていたはずですが、ここであえて征夷大将軍としたのは、なぜでしょう。征夷大将軍=天皇に任じられた武家のリーダーである信長の仇討ち、とすることで、これが織田家中の権力問題ではなく、天下に関わる大事であり、それを鎮めた秀吉の功績をより意義あるものとアピールするためではないかと推察されます。

また先ほど説明した光秀の最期も、秀吉に討たれたことになっています。こちらも秀吉の活躍を強調するためと思われますが、なんの関係もない農民が殺害したとしては主役(秀吉)による仇討ちのストーリーとしてきれいに収まらないためでしょう。秀吉が光秀を討った動機も、本曲では純粋に主君の仇討ちとし、秀吉の忠勤を強調していますが、実際には野心もあったことと思われます。

以上のように「明智討」では一曲のうちで話をきれいにまとめるためと、秀吉の忠勤や活躍を称えるための潤色がなされています。秀吉の事績について、秀吉自身がそれらを忠義の行動として印象づけようとした可能性もあります。

さらには、本人役で能に登場することは、他に類を見ません。また歴史上の人物が自分の過去の行動をどのように評価していたのかは、あまり記録に残ることがなく分からないことが多いのですが、秀吉の場合、能を作り自身で舞っていることから、少なくともこれらの事績を誇らしいものと自負していたようです。秀吉の当時の勢いを感じるとともに、光秀たちの言い分も聞いてあげたい気持ちになりますね…。