2020.02.25

私の仕事について

私の仕事は「聴く仕事」である。高校国語教師だった30歳頃までは、自分の仕事は「教える仕事」と思い込んでいた。しかし、カウンセリングに出会ってから今日70歳まで、私は「教えること」は「尋ねられた時」に、「尋ねられた分」だけ教えることを理想としてきた。もちろん、自分が教えることができる場合にのみ、これは可能となる。

「先生、自分の進路を選ぶときの、選択基準は何だと思いますか?」と学生が尋ねる。

「自分の好きなこと、好きな方向、だと思うよ」

と私は応える。

「私も、そう思うのですが、困ったことに私には『すきなこと』が無いのです。もちろん、進路を決める基準になるほどの『好きなこと』という意味においてなのですが。こんな場合、私は進路をどう決めていけばいいのですか?」

と学生は言う。

 このような質問には「教えること」はできない。しかし、問いかけている学生には応答してあげたい。「教えること」のできない質問とは、質問している本人が自分に問いかけている大事な問題なのである。そんなとき、私は「聴く仕事」をすることにしている。

「私は進路をどう決めていけばいいのですか?」

「好きなことが特に無いあなたは、進路をどう決めていけばいいのだろうね」

「先生にもわかりませんか?」

「わかりません」

「・・・・・・・・・・(沈黙)・・・・・・・・・・・・・・」

教師は教える仕事ができないと耐えられないほど苦しい。だから、教えられない問いに答えてしまう。教えられない問いだとわかるくらいの優秀な教師でも、「先生にもわかりませんか?」と言われて「わかりません」と言うことができる人はまれである。

この学生は沈黙の後、ため息とともに、こうつぶやいた。

「自分のことは、自分にしか答えが無いのでしょうね」

「試験中に答えが出ない問題にぶつかったとき、あなたはどうしていますか?」と私は尋ねた。「試験問題を解いているときには、わからない問題は、後回しにしています。できることからやります」と学生は答え、「なるほど!」と私は感心した。「あ、・・・できることからやればいいか」と学生は喜んだ。

 私はこの当たり前の答えに対して、なぜ感心してみせたのか?人は、人生の問題についての答えを求めているとき、当たり前の気づきを得ることは案外むつかしいのである。教師という他者が、学生という当事者に、当たり前の回答をした場合、それは陳腐な、凡庸な答えでしかなくなるのである。逆に、当事者本人が、自分にしか出せない答えに気がつく瞬間を仕組んで「答えが出ない問題にぶつかったとき、あなたはどうしていますか?」と問いかけて「わからないことは後回しにして、できることからやります」を引き出したとき、聴く教師は感心して見せるのである。

 わざとらしい、感心ではない。自分に関する独自な気づきは、導かれて気づいたとしても、その人の創造性に基づいているから、感嘆に価するのである。
                                          藪添 隆一(2020年2月25日)